野村萬斎演出 『鷹姫』『楢山節考』劇中映像作成
野村萬斎さんが演出・出演されている『鷹姫』『楢山節考』の、
劇中で使われる映像をモーショングラフィックスを駆使して作成しました。
もっといろいろ出来たんだけどなと未練を残しつつも、
演出家の意図にまずまずは対応できたと思います。
高校生の時分に萬斎さんの講演を聞きに行ってからはや15年、
よもや自分が打ち合わせから参加して、
楽屋でお弁当を振る舞ってもらえるとは思ってもいませんでした。
舞台の公演パンフレットに自分の名前が列せられているのを見るのは望外の喜びでした。
アイルランドの詩人であるイェイツが書いた戯曲を原作に、
不死の水を欲する若者が泉にたどり着く『鷹姫』と、
深沢七郎が書いた
自ら死を求める老婆が山へと向かう『楢山節考』は、
いずれも死生観を問うテーマでありながら題材は真逆となっており、
並列して上演されることに強いメッセージ性を感じました。
鷹姫には、不老不死の水が湧く泉を求めながら、ついうたた寝をしてしまい、
その刹那に水が枯れ果てて得ることが叶わなかった老人が出てきます。
今回作成した映像も、
「地面から水のように滲み出て、塵のように風化していく」という
演出のリクエストがありました。
老人が手をのばしても決して掴むことが出来ない実体の無さは、
みなもにたゆたう月のようであり、
その儚さは物語の基幹を成している重要なイメージとなっています。
この老人というのが非常におせっかいで、
主人公である若者・空賦麟(クー・フーリン)に向かって助言をのたまう一見善良な人物なのですが、
その内容は自身の過去の失敗と後悔がお前にも同様に降りかかるぞという、
意気を挫く余計なお世話に他なりません。
老人の言葉に対して空賦麟は「われをおびやかすしれ者」と罵倒しますが、
果たして空賦麟もまた泉の水が湧き出てる間にだけ鷹の幻に意識を奪われることとなり、水を得ることが叶いません。
まるでシェイクスピアのマクベスに登場する魔女の佞言に似て、
老人のかけた善意の言葉はやがて呪いとなって現実に結びつくわけです。
空賦麟の性格を、
人の話をないがしろにする愚か者と見るかは人によってわかれるところだと思います。
個人的には、鷹の飛翔に心を奪われ、
地の底に沈潜したような濁った言葉に耳を傾けない姿は
若者の純粋な心の代弁者のようであり、その鮮烈な感情には眩しさを覚えました。
そして老人の言葉さえなければ、
水を得られずとも自身が垣間見た幻想に充足できたのではないか……と思わずにはいられません。
古老の抱く積年の怨念を内包し、継承したことで、彼の後悔はより深くなり、
老人と同様に精神が停滞して、結末では岩と化してしまうのです。
老婆心から出る無垢な善意の言葉は、
時として若者にとって呪いにもなり得る……という、
人間の相互不理解の問題が物語に巧妙に組み込まれているからこそ、
この作品には普遍性があるのだと思います。
この相互不理解は楢山節考における、おりんやんの親子関係にも見て取れました。
村の古来の掟に乗っ取り、姥捨山に行くことを望むおりんやんの善意は、
それを背負ってゆく息子の辰平の良心を徹底的に苛みます。
老母の肉体が健全であるからこそ、
辰平は過去と変わらない平穏な生活、すなわち停滞を望むのに対して、
老婆は停滞した日常を打開するために自ずから歯を石で砕き、
肉体を変質させてまで息子を説得します。
しかしながら辰平もまた、姥捨て山からもっこを背負って帰ることで、
自分もやがて同様に棄てられて構わないという決意を継承しており、
そこにかろうじて、紡がれた心と、一縷の光を見出すことができます。
こうしてみると、
継承は、今回の公演の主題の一つだったのでしょう。
なぜなら、題材もさることながら、親子三代が出演されていたからです。
偶然ですが、萬斎さんがご子息に三番叟の稽古をされてる場面に立ち会うことができました。
重心を下げろと言いながら、萬斎さんがぴょんと飛び跳ねてご子息の背中におぶさる光景に驚きつつ、
「肉体が若い!」という直截的でないダメ出し(?)に、なにかこう優しさを感じつつ……
こうして芸能が連綿と受け継がれてきたんだなあという時の流れを眺めることが出来、感慨を抱いておりました。
そうして舞台上に現出した、
不老不死を求めて蓬莱の国にまでやってきたケルト神話の英雄と
日本人が通底したイメージを抱く民話の中の寒村の老婆とが、
対称的な継承を体現したことで、
より明確にテーマが浮き彫りとなりました。
精神を置き去りにして肉体だけが朽ちていくこと。
肉体が停滞して、精神だけが不安と焦燥を持て余すこと。
この、肉体と精神とが乖離することによる苦しみは、
人間の逃れ得ぬ宿命なのかもしれません。
俺もまた、後悔から過去に拘泥して、
精神が岩となって停滞しているなと思うことがたびたびありますが、
今回の恵まれた経験によって、
心の中でずっとうずくまっている昔の俺の背に向かって時間の風が吹き、
ちょっとだけ前に歩いてくれたような……そんな気がしてします。
かねての羨望と憧憬に近づいて、報われる機会だったように思います。