デザイン業務を減らしたい

常日頃、仕事におけるデザイン業務の割合を縮小させたいと思っています。理由は簡単で「デザインでは自分の心を知ることができない」と思っているからです。ここで言うデザインとは、依頼されて制作するものに限ります。

観察力が人より優れているという自覚があって、クライアントが求めているものを察して提案する能力が高いのでデザイン業務ができていますし、知識と論理的思考力があるので理論武装したデザイン構築ができるわけです。ただ、クライアントが求めるものを作ることが必ずしも大衆に等しく受け入れられるものでもないため、デザインを個人向けのサービスとして捉えるか、大衆という概念の公約数を目指す作業として捉えるのか、そこいらへんの正解はいまだによくわかっていません。自分自身でよくわからないものをふわっと作っている、地に足の着いていないことに端を発する内省的な自己嫌悪がずっとあるのです。

そもそもデザインに感動して涙を流したことがないので、創作のモチベーションになり得ません。
辻村ジュサブローさんの人形や、セルジュ・ルタンスの写真が好きなのです。優雅で耽美で、猥雑で無国籍なものが好きなのです。デザインではなく装飾が好きなのです。
デザインは無駄をなくしていく作業だという主張をどこぞのデザイナーがしているのを見かけることがありますが、シンプルさを追求した制約の苦しみを想起することはあっても、人間が手ずから作り上げた身体言語の痕跡を失した造形に感動を覚えることがないのです。
昨今の巷のデザイン観が追求している造形というのは無味乾燥で単純あり、美輪明宏さんの言葉を借りて批判するならば「シンプルイズワースト」に他なりません。

元来デザインというのは現状の不満や問題点を解決するために行われます。「もっとかっこよくしたい」や「もっと便利にしたい」という顧客の要望に沿うから需要があるのです。しかしその需要の中身は、流行によって流動的なものとなっています。多くの人が流行に囚われており、普遍性を求めることはありません。
そうした変化し続ける大衆の価値観を、四六時中追いかけた上でデザインに落とし込みたい人がデザイナーを名乗り、デザインをやって、そうしたデザインが好きな人に還元したほうがいいと思うのです。
デザインという概念に対して抱いていたまぼろし……多くの人を虜にするデザインには、人種や性別を越えた、普遍的で根源的な本能に根ざした美的要素が内包されているだろうという前提。これはもはや、造形そのものではなく統計にしか根拠を依拠できないのでしょうか。大衆の心理をデータ化し、それをベースに組み合わせていくパズル……「こうすればウケるよね」という極めて冷めた、冷静で客観的で独自性を介入させないデザイン的行為。

そうではなく自分の心を知れる創作がやりたいのです。情動の暴発を必死に自制しながらも、怜悧に筆先を動かし、自分の心の深奥を表出化させ、そこに向き合ってみたいという切望。そこにもしかしたら普遍性が含有されてるかもしれないという期待。
関心を己の外側でなく己の内側に向けることで、自分の心を知る旅を再開したいと今は願っています。それ故に、デザインとは違うことをやりたいのです。